2016年1月18日月曜日

お風呂が直った。

前回の投稿から1週間。
やっとお風呂が直りました。

以前のヤツは、据え置き式だったので、
地面と接する部分が、ボロボロに錆びていて、
25年間の時を、物語っていました。


修理は、知り合いの水道屋さんにおまかせしました。
古い湯沸かしは、機械から直接、給湯管が出ていたので
配管が目立たなかったのですが、


新しいほうは、壁掛けになったので、
たくさんのホースが、ちょっとごちゃごちゃになってしまいました。


でも、ま、いっかー。
仕方がないですもんね。

リモコンも、いままでの消えかかった液晶のものから、
ライト付きのものに変わりました。

42度で沸かして入ってみると、いままでのものと感じが違います。
こんどのほうが、温かいのです。

やっぱり古いほうは、機械そのものが、
だいぶ弱ってたんでしょうね。


ともあれ、家でお風呂にはいれることが、
こんなにありがたいことだとは知りませんでした。

当たり前の日常が、ありがたいですね。





















金田福一兄によるみことばの説き明かし


・純粋な愛

愛は神から出ているのです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって
私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに愛があるのです。【Ⅰヨハネ4:7,9】


愛とは何でしょう。

かわいそうでたまらない涙。
助けずにおれない衝動。
そういうことだと思います。

自分のための計算が少しでもあるなら、
純粋な愛とは言えますまい。

しかし、そのような愛さえも、ほんとうに、
相手の人の自由と幸福のためであるのか。

「愛する」という自己満足の計算が、
少しでも潜んではいないか。
冷静に、判断されなければなりません。

しかし、その冷静な判断の能力さえも、
欠けることがあり、
それが、悲劇や不幸の原因となることがあるのです。

どんなに鋭い反省と自己認識も、
自己追及の価値から解放する力は、
人間にはないのです。

純粋な愛は、
イエスさまだけがお持ちなのです。








2016年1月10日日曜日

ついに風呂釜の寿命が尽きた!

この前、風呂場の配管を治してもらったばかりなのに、
こんどは、お風呂の湯沸かし器が壊れました。

もう25年近く使って来たので、
仕方がありません。

なんでもなかったときは、当然のように、
毎日、入浴できていたのに、
いざ壊れたとなると、一気に不便になります。

さっそく業者に頼んで、見に来てもらったのですが、
見積書を作りますと言っただけで、
三日たっても送って来ません。

おまけに世間はまさかの3連休(>_<)
お風呂にはいれないことが、こんなに大変だなんて!

とうとう、家内と共に、銭湯に行ってきました。

ひと昔前までは、家に近くに2軒、お風呂屋さんがあったのですが、
どちらもいつの間にか、店じまいになっていました。
それで、ウチから1km以上も離れた銭湯に、行く羽目になってしまいました。

久しぶりの銭湯は、当然のことですが、
あったかくて、広くて、とても温まりました。

でも、きょうは休みだったので、これでも良かったのですが、
仕事の日は、帰りが晩の8時、9時になることも多いので、
早くお風呂を直してもらわないと困ります。

銭湯が、もうちょっと近かったら良いんですけどねぇ。。。


そんな訳で、今回は写真がありません。
悪しからずm(__)m
















金田福一兄のメッセージ


・罪があるままに


十字架による罪の贖いと、赦しということは、
死ぬるまで罪人にすぎない人間が、
罪があるがままに、滅びの中から贖い出されたことです。

また、罪があるがままに、赦してくださることです。

どんなに罪があっても、何度罪を犯しても、
死ぬるまで、赦してくださるのです。

キリストの支配の中に入れられた者が、
罪を赦されるということは、絶対的なことです。

過去の罪過を、赦してくださるだけでなく、
現在、罪の思いが、燃えさかっているがままに、
主は、赦してくださるのです。

故に、あなたはもはや、自分を責めることをやめなさい。

自分を責めることは、十字架のキリストを、
信じないことになるからです。

罪があるがままに、赦してくださるのは、
あなたを、「導いてくださる」ためです。

「導く」ということは、罪の行為や、
悪習慣の中に、座り込んでいるままに、
放置されることではありません。

幼稚園の保母さんが、幼児の手を引いて、
危ない所を守っていくように、
イエスさまが、手を引いて、人生の、悩み多き日々を、
連れて行ってくださることが、「導かれる」ということです。

その際、「赦されている」という確信は、
あなたに、活力と明るさとを与えてくれます。

また、イエスさまに、「伴われる」ということは、
隣人や、家族や、教会に、愛を持って、仕えていくことを意味します。

他に仕えようとしない人は、自分の欲望にも、打ち勝つことができません。

若くして、福音を伝えたり、社会福祉のわざに生涯を遂げた人々は、
自分の内部に、悩みを抱き、
悩みを引きずりながら、前進して行ったのです。

「赦されている」という感謝と平安は、悩みに打ち勝つ力です。

どうか、主に従って生きてください。