2016年7月4日月曜日

私の乗ってきたバイクたち(その2)



この前、乗ってきたトライアンフの写真を載せましたが、
長すぎるマフラーは私好みではなく、排気音もしょぼかったので、
思い切って英国のメーカーに、特注して、マフラーを作ってもらいました。


BSAゴールドスター型のマフラーは、願っていた通りの、低くて野太いサウンドを奏でてくれました。
また、シートも、好みのカタチに整形しなおしました。

残念ながら、このバイクの写真は、これ一枚しかありません。

さて、ヤマハSR500改も、トライアンフTR-750改も
充分に、楽しませてもらったのですが、
たまたまハーレーの展示試乗会に行って、試乗車に乗ってみたら、
その排気音と心地よい振動に、いっぺんに参ってしまいました。

とは言っても、大きなハーレーには、食指が動きませんでした。
気に入ったのはスポーツスターと呼ばれる、小型のハーレーでした。


この写真は、ウチに来てまだ間がない頃のものですが、
分厚いシートは全く好みではなく、すぐに削って張り替えました。


これはシングルシートに付け替えた写真です。
テールランプが英車のものに変わっています。

小さな車体でしたが、エンジンは1200ccもあるので
アクセルをひねると、ドカンとパワーが出て、とてもエキサイティングでした。


この時点では、シートが薄く削られました。
マフラーも、メガホンタイプの2本だしに変わっています。




ここでは、アメリカの職人さんに特注して作ってもらった、一品物のアルミタンクが載りました。
バイクのイメージが、がらりと変わっています。





振動でフェンダーが割れてきたのをきっかけに、前後フェンダーをマルーンに塗り替えました。
シートも変わっています。
国産車のものを加工して、取り付けられるようにしました。
取り付け用の金具は、スクーターツーリングでおなじみのNさんに作ってもらいました。



純正のメーターが、振動で飛んでしまったので、社外品の小さなものに取り換えました。

前から見た時の、ヘッドランプ周辺が、とてもスッキリしました。



残念ながら、このあと何年か、バイクにまったく興味のわかない時期があって、その間に
このスポーツスターも手放してしまいました。

これらのバイクたちを持っていたころには、車検や整備から細かなメンテナンスまで
ぜんぶ自分でやっていたのですが、
いまはオイル交換するのも、自分でやるのはめんどくさくって、バイク屋さんにまかせてしまって
います。



いまもう一度、大きなバイクが持てるとしたら、やっぱりスポーツスターがいいです。
バイクって、ホントに楽しいですから。









金田福一兄のメッセージ
 『臨在の確信』

主がいつでも、私と共に居てくださるという臨在の確信を、どうして与えられるかということを、私に示されたところによって、書かせていただきます。

それはまず、神さまからの恵みであるということです。神さまの恵みのわざを、「精霊の働き」、「御霊の働き」と言います。
御霊がお働き下さるとき、イエスさまが、私と共に居てくださるということが、フッとわかるのです。

その時は、必ず、聖書のみ言葉をもって、イエスさまが、語りかけて下さるので、ご臨在が分かり、ご臨在を信じることができるようになるのです。
ご臨在が分かり、このことが確信になった、その時から、その人は、変えられて参ります。

その人を変えなさるのは、イエスさまご自身です。自力で自分を変えるのではありません。イエスさまのお力、神さまの恵みによって、変えられていくのです。いままで、平安と感謝がなかったのは、自力であったからです。

また、臨在の確信の根拠になるものは、みことばの御約束です。
「見よ、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」というイエスさまの御約束は、厳然たるものです。(マタイ28:20)
私たちがどんなに罪深くても、どんなに欠点だらけであっても、どんなに弱くても、イエスさまは私たちに来てくださり、十字架によって罪を赦し、そのご支配の中に入れてくださり、いつでも私たちと共に居てくださいます。(コロサイ1:13,14)

このみことばを、すなおに、大胆に信じてください。「私はだめだ」と思ってはいけません。それはイエスさまを、信じないことになるからです。
だめな私たちだからこそ、共に居てくださるのです。「信じなければならない」と、焦ったり、骨を折って考えたり、努力したりする必要はありません。
「イエスさまが共に居てくださる」という臨在の確信は、私たちの意識の底に沈み、イエスさまに対する信頼感、安心感となります。

また、臨在の確信に生きる生活は、いつからどのようにして始まるのかといいますと、イエスさまは、いつでもそばに居てくださるのですから、そのお約束を大胆に信じて、「主よ、感謝します」という言葉を、口癖にし始めた時から、始まるのです。

心が乱れたり、暗くなったりしそうになっても、すぐに、「主よ、感謝します」とお礼を先に言ってください。
信仰の勝利は、感謝と賛美から始まるのです。お礼を言うことに鈍感なことは不信仰にすぎません。

考え込んだり、焦ったりするより先に、「感謝します」とお礼を言ってしまうことは、信仰そのものなのです。
何があっても、「主よ、感謝します」と言って下さい。

なぜ感謝しなければならないかと考え込んでしまうようでは、信仰生活というものではありません。
いつでもそばに居てくださり、どんな患難にも、打ち勝たせてくださるのですから、「主よ、感謝します」と何があっても、お礼を申し上げるのは当然です。

思い案じて、いい結果になったので、始めて感謝するというのは、ご利益宗教にすぎません。信仰ではありません。